きっかけ
小さいときから姉は、僕のことを何かにつけて『だし』に使っていました。
今だにその傾向があるという事は、余程良い『だし』が出るのでしょう。
「お父さん、謙をフォークソングのコンサートに連れてやってええやろか?」
そんなふうに父親の了承をとる『面倒見の良い姉。』のことを
「ほんまは自分がボーイフレンドと一緒に行きたい癖に。」などとは、
口が裂けても言えません。僕からは。
だってあのPPMが歌っている 『500マイル』や『花はどこへ行った』が、
アマチュアとはいえ『生』で聞けると言う話しですから。
僕達が烏丸丸太町の勤労会館に着いたとき、もうすでに
大勢の大学生で会場はごった返していました。
なにせフォークブームの真っただ中。
しかもこのコンサートはアマチュアバンドでありながら、
絶大なる人気を誇るフォーククルセイダーズが出演する、
A.F.L.コンサート だったのです。
僕にはそれが何のことかも良く解らなかったのですが、
とりあえず前から何列目かの席に着き、
『500マイル』を聞く準備をしていました。
舞台上手側の良い席だったとおもいます。
当時のコンサートは、『大学生のお楽しみ』と言った感じで、
僕のような中学生の姿は、
余程エセ面倒見の良い姉でもいない限り、見ることはできませんでした。

コンサートが始まると、次から次へとグループが出てきて歌うのですが、
お目当ての『500マイル』や『花はどこへ行った』が出てこないのです。
口からでまかせとは薄々解ってはいても
「あんたの好きな、『500マイル』やら歌わはるコンサート行くか?」
と誘われて来ただけに、残念でなりません。
「ひょっとしたら、これは僕の好きなフォークソングと、
また違うフォークソングかもしれんなぁ。」等と
訳の解らんことを思いつつ、知らない歌を聞き続けていました。
グループの入れ替わりの度に出てくる司会者、
背の小さなお兄さん(端田宣彦)の話しが、妙に可笑しかった事、
京都初の高校生のバンド『ポートランドベガーズ』が出たこと、
印象に残ったのはそれくらいでした。
そして、いよいよ最後のグループ。司会の背の小さなお兄さんが、
これまでになく 大層に紹介したのが『フォーククルセイダーズ』でした。
「フン、どうせよう似たもんやろ。」の思いは大はずれ。
今までのグループとは全く違う。何よりも彼等は日本語で唄う。
わかりやすい。
『ソウカ、自分のフォークソングを日本語で作ってもイイのか。』
を感じたのはこの時でした。
のも束の間、気が付けば完全に引き込まれていました。
183センチもある当時ではとてつも無く大きい2人と160センチの
メンバー3人という 見た目の可笑しさ。
言葉遊びのように唄われるコミカルな詩。
大爆笑させながら 「うちのバンドはコミックバンドじゃ無い!」
と力説する司会。曲の途中で全く違う曲になってしまうアレンジ。
飛び交う風刺の聞いたアドリブ。
その上中国手品があったりと、どれを取ってもハイセンスで切れが良く、
人気の理由が納得できるステージでした。『PPM』を見に来たつもりが、
『ドンキークァルテット』を見に来たみたい。
が正直な印象でした。お腹の皮がよじれて苦しかったです。
司会者が神妙に「フォークルが大切に唄い続けている曲を最後に唄います。」
それを聞いて、僕は「最後には、もっと面白い事をやるに違いない。」
と期待してました。そして、その『最後の曲』が始まった途端、
大きなハンマーで『がつん』と殴られたような衝撃を受けました。
大きな音がしました。
それは、これまでどのFolksong を聞いたときにも無かった、
いや、これまでに感じたことの無かった大きな衝撃でした。
体の中を電流が通り抜けると言うのはこの事を言うのでしょう。
いい曲でした。
コンサートが終わった帰り道、「僕は絶対にあの歌を歌ってやろう。」と、
固い 決心をして、ところどころ覚えているメロディを口ずさみながら、
フツフツと燃え上がってくる何かを感じていました。
今だにこの曲のイントロを聞くと、あのときの気持ちを思い出します。

だから僕は今も『イムジン河』を唄っているのです。 

 
平沼義男       北山修          加藤和彦
ザ・フォーク・クルセダーズ 

  
先日、イムジン河を高校時代に訳詩したと言う松山猛さんに逢いました。
「君たちが唄い続けてくれたからこの詩が今日まで生きていたんだ。」に
「貴方が書いてくれたからこうして唄っていられるんだ。」と答えました。

34年の年月を越えてイムジン河が2002年4月に再発? 
こんな事を思い出しました。