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初めて聞いた生演奏
1900年代後半に世間をあっと驚かせた出来事の一つに、生体肝移植があります。
僕の音楽史と生体肝移植とは切っても切り離せない関係があるのです。
実はこの偉業をやってのけた
『田中紘一先生』
が僕の小学校時代の家庭教師だったのです。
親達が僕を私立の中学校に行かせようと思い、当時京大の医学部に通う九州出身の
『こおちゃん』
にお願いしたようなのですが、坂本九の歌にしか興味を持たない僕がとても不真面目に教わり、
ちっとも勉強する気にならないものですからよく叱られたことを覚えています。
だから当時の僕は
『こおちゃん』
のことがあまり好きではありませんでした。けど
『こおちゃん』
は僕の事を毛嫌いする様子もなく、家庭教師以外以外でも、いろんな事をして遊んでくれはりました。
初めてあやめ池遊園地へ行ったのも
『こおちゃん』
でしたし、親戚以外の家(下宿。確か北白川方面であったと思う)に泊めて貰ったのもそうでした。
何のきっかけで泊めて貰うことになったかは忘れてしまいましたが、
6帖くらいのトイレも炊事場も共同のこじんまりかたづいた下宿に着くと、
押入の中から小さなプレーヤーが出てきたのを覚えています。
いつもこわい顔をしている
『こおちゃん』
が賠償千恵子の
「さよならはダンスのあとで」
を聞きながら
にこにこ笑って
「このちょ〜うだいって言うところを聞くと、とっても切ない気持ちになるんだけど、謙ちゃんにはまだ解らないよなぁ。」
などと話してくれるのです。
「なんでこんなもんがええにゃろ。坂本九のほうがよっぽどええのに」
と思いながらも、よい子の僕の答えは
「うん」。
その頃の僕にしてみれば、うちの親父も大学生の
『こおちゃん』
も同じ大人でしかなかったし、大人の好きな音楽そのものが理解できなかった様です。
何度となくその
『ちょ〜うだい』を聞いたあとに
『こおちゃん』
は
「そうそう」
と 押入の中からガットギターを持ち出してきました。
僕にとっては初めて見るギターでサウンドホールの周りの細工がとても綺麗なように思えました。
「僕は勉強して疲れると、時々ギターを弾くんや」
と言って、その当時の大学生なら誰もが一度は練習したといわれる
『禁じられた遊び』
を聞かせてくれはりました。続いての
『鉄道員』
は途中まで。(大人というのは、なんて暗い歌が好きなんだろう?)
たしかこの2曲だけでしたが、わりと上手いこと弾かはったように記憶しているのですが、その後すぐに
「ギターが欲しい」
と、親にねだらなかったところを
見るとそうでもなかったのかもしれません。
ともかく僕に初めてギターの生演奏を
聞かせてくれたのは、世界の医学史に名を残すであろう
『田中紘一先生』
であった 事は紛れもない事実なのです。きっと僕に
「音楽と勉学は両立できる」
を教えようとしてくれはったのでしょうが、今となって
『田中紘一・北村謙』
の両者を見れば、
『両立は無理!』
に気づかれることでしょう。
『こおちゃん』
のギター演奏は後にも先にもこの1回だけしか聞いた覚えがありま
せん。
なのにあのときの指使いや音色は覚えているのです。
2年間教わった勉強の 事はなに一つ覚えていないのに・・・。
その後何十年と全く逢わないままでしたが、ばったりホテルのロビーで出逢った時はもうすでに時の人でありました。
報道陣のフラッシュとテレビカメラのライトに煌々と照らされて、廊下の向こうから田中教授の登場!
「こおちゃん!久し振り」
と声を駆け一言二言話していると、周りを取り囲んでいた報道陣は
「田中教授を『こおちゃん』ときやすく呼ぶこいつは何ものだ。」
見たいな顔、顔、顔。
「こおちゃんはまずかったかなぁ」
というと
「イヤ、それでかまわん」
と相変わらずの九州なまりで答えてくれました。
あの時聞けば良かったなあ。
『こおちゃん』
は今も手術で疲れたときに、 時々ギターを持って
『禁じられた遊び』
弾いてはるの?
そして今でも倍賞智恵子の
『ちょうだい』
を口ずさんでちょっと切ない気持ちになってるの?
今度逢ったらぜひ確かめてみましょう。
